2018年 我が家はNHK大河ドラマの西郷どんにはまった年でもありました。

年初の1月10日には鹿児島県を旅してゆかりの地を訪ねました。
→http://sekarashika.blog.jp/archives/2018-01-10.html
11月11日には大河ドラマ館に行きました。
→http://sekarashika.blog.jp/archives/2018-11-11.html
毎週日曜日の夜に家族3人で大河ドラマを楽しむことができたということは、それだけ平和な一年だったということです。
しかし、今から141年前の1877年、九州では日本国内最後の内戦である西南戦争が起こり、明治新政府の政治の進め方に不満を抱えた薩摩や肥後の士族と、対する全国から徴兵された政府軍とが、日本人同士、あるいは同郷の者同士が戦うという悲惨な歴史が存在しました。

その戦禍は熊本県内を縦横して繰り広げられ、特に江戸時代から玉名と熊本を結ぶ幹線道路であった田原坂(たばるざか)では政府軍と薩摩軍の間で十七昼夜に及ぶ極めて激しい戦いが繰り広げられ、西南戦争全体の戦死者約一万四千人のうち約4分の1にあたる人々がこの地で命を落としました。(鹿児嶋争戦一覧図:正念寺蔵)
「西郷どん」では先週12月9日に田原坂や玉名高瀬での戦いの様子が放映されました。西郷隆盛の末弟である小兵衛が戦死し、息子菊次郎が脚を銃弾で打たれるというシーンがありましたが、熊本ケンミンにとっては、「もう熊本編終わりかよ?」と思ってしまうほど、あっという間のわずかな放映でした。
亭主は、ドラマ最終回を控えた12月15日、息子と友人アシモモ~さんと共に漢三人、田原坂に参り、直に歴史にふれてみることにしました。

田原坂の遠景
政府軍が北側から熊本城方面へ向かうためにはどうしてもこの田原坂を越えなければなりませんでした。他の間道は道幅が狭く大砲をひいて通ることができなかったのです。

田原坂の入り口 豊岡眼鏡橋


田原坂は標高わずか約80m、延長距離約1.5kmの縦貫道でしたが、曲がりくねり、両側は断崖になった切り通しの凹道でした。薩摩軍はこの坂の両側いたる所に防塁を設けて政府軍を待ちかまえました。
田原坂の激戦は3月4日、雨の中で開始されました。

守備する薩摩軍を攻めあぐねた政府軍でしたが、警視庁巡査や旧合津藩士族で臨時に組織された抜刀隊(ばっとうたい)の活躍で活路を見出し、徐々に戦況を優位にして行きました
薩摩軍は示現流で鍛えた白兵戦で勇敢に突撃していましたが、弾薬不足に悩まされます。

また、田原坂での戦いは雨が多く、民謡にも唄われています。

雨は降る降る じんばはぬれる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年
負傷した兵士は官薩問わず日本赤十字社の前身「博愛社」が治療を承りました。
その病院は正念寺に設けられました。

正念寺
門には弾痕が残っています。
さて、熊本市はこの西南戦争に至る経緯や時代背景、戦いの様子などについての資料を展示し、学ぶことができる、田原坂西南戦争歴史資料館を平成27年11月にオープンさせました。


屋根の勾配は田原坂をイメージして設計されたそうです。
館の外は見事な眺望であり、田原坂と同様の激戦地であった吉次峠を眺めることができます。

吉次峠では赤いマントをひるがえす薩軍一番大隊長 篠原国幹が命を落としました。
館内では、様々な展示が目を引きました。

なんと!この日は私たち3人のために資料館の館長さまが直々に詳しい説明を行ってくださいました。

戦時中の実弾
田原坂では一日に約30万発もの銃弾が飛び交い、弾どおしが空中で当たりくっついた「かちあい弾」も多く出土しています。

戦争中に薩摩軍が軍費を調達するために管内で流通させた「西郷札」

他にも大変興味深い貴重な品々を観覧でき、さらに懇切丁寧な説明まで行っていただき、大変有意義な日を過ごすことができました。中村館長様をはじめスタッフの皆様ありがとうございました。

年初の1月10日には鹿児島県を旅してゆかりの地を訪ねました。
→http://sekarashika.blog.jp/archives/2018-01-10.html
11月11日には大河ドラマ館に行きました。
→http://sekarashika.blog.jp/archives/2018-11-11.html
毎週日曜日の夜に家族3人で大河ドラマを楽しむことができたということは、それだけ平和な一年だったということです。
しかし、今から141年前の1877年、九州では日本国内最後の内戦である西南戦争が起こり、明治新政府の政治の進め方に不満を抱えた薩摩や肥後の士族と、対する全国から徴兵された政府軍とが、日本人同士、あるいは同郷の者同士が戦うという悲惨な歴史が存在しました。

その戦禍は熊本県内を縦横して繰り広げられ、特に江戸時代から玉名と熊本を結ぶ幹線道路であった田原坂(たばるざか)では政府軍と薩摩軍の間で十七昼夜に及ぶ極めて激しい戦いが繰り広げられ、西南戦争全体の戦死者約一万四千人のうち約4分の1にあたる人々がこの地で命を落としました。(鹿児嶋争戦一覧図:正念寺蔵)
「西郷どん」では先週12月9日に田原坂や玉名高瀬での戦いの様子が放映されました。西郷隆盛の末弟である小兵衛が戦死し、息子菊次郎が脚を銃弾で打たれるというシーンがありましたが、熊本ケンミンにとっては、「もう熊本編終わりかよ?」と思ってしまうほど、あっという間のわずかな放映でした。
亭主は、ドラマ最終回を控えた12月15日、息子と友人アシモモ~さんと共に漢三人、田原坂に参り、直に歴史にふれてみることにしました。

田原坂の遠景
政府軍が北側から熊本城方面へ向かうためにはどうしてもこの田原坂を越えなければなりませんでした。他の間道は道幅が狭く大砲をひいて通ることができなかったのです。

田原坂の入り口 豊岡眼鏡橋


田原坂は標高わずか約80m、延長距離約1.5kmの縦貫道でしたが、曲がりくねり、両側は断崖になった切り通しの凹道でした。薩摩軍はこの坂の両側いたる所に防塁を設けて政府軍を待ちかまえました。
田原坂の激戦は3月4日、雨の中で開始されました。

守備する薩摩軍を攻めあぐねた政府軍でしたが、警視庁巡査や旧合津藩士族で臨時に組織された抜刀隊(ばっとうたい)の活躍で活路を見出し、徐々に戦況を優位にして行きました
薩摩軍は示現流で鍛えた白兵戦で勇敢に突撃していましたが、弾薬不足に悩まされます。

また、田原坂での戦いは雨が多く、民謡にも唄われています。

雨は降る降る じんばはぬれる
越すに越されぬ 田原坂
右手に血刀 左手に手綱
馬上ゆたかな 美少年
負傷した兵士は官薩問わず日本赤十字社の前身「博愛社」が治療を承りました。
その病院は正念寺に設けられました。

正念寺
門には弾痕が残っています。
さて、熊本市はこの西南戦争に至る経緯や時代背景、戦いの様子などについての資料を展示し、学ぶことができる、田原坂西南戦争歴史資料館を平成27年11月にオープンさせました。


屋根の勾配は田原坂をイメージして設計されたそうです。
館の外は見事な眺望であり、田原坂と同様の激戦地であった吉次峠を眺めることができます。

吉次峠では赤いマントをひるがえす薩軍一番大隊長 篠原国幹が命を落としました。
館内では、様々な展示が目を引きました。

なんと!この日は私たち3人のために資料館の館長さまが直々に詳しい説明を行ってくださいました。

戦時中の実弾
田原坂では一日に約30万発もの銃弾が飛び交い、弾どおしが空中で当たりくっついた「かちあい弾」も多く出土しています。

戦争中に薩摩軍が軍費を調達するために管内で流通させた「西郷札」

館発行の展示案内パンフレットが美しい漫画を用いて分かりやすくクオリティが高く秀逸です!


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