熊本県南の球磨郡錦町
人吉盆地の中の高台に先日オープンした博物館
にしき ひみつ基地ミュージアム
(人吉海軍航空基地跡)に行きました。
長屋造りの建物です。
亭主にとってはなじみの経路ですが、現地までは道路標識もまだ整っておらず非常に分かりづらいです。ご注意ください。
開館時間は10:00〜16:00
休館日は火曜日と年末年始です。
入館料は、大人500円、小中学生300円です。
建物は木造。おそらく地元の木材をふんだんに使ってあると思われます。
そもそも、ここは何の目的で建てられた博物館なのか?
太平洋戦争末期の1943年11月、九州山地にかこまれた海のない人吉盆地の錦町・相良村に広大な飛行場や教育施設、無数の地下施設がつくられました。この博物館はその跡地に建てられたものです。
その「人吉海軍航空基地」がどのような活動をしていたのか。そして、戦争末期の情勢と地元の人々の生活はどうだったのかを体感する博物館です。
常設展示では、当時の戦況にあわせて基地の役割や活動が変化する様を、大型の壁面年表で解説されています。
人吉海軍航空基地は昭和19年2月から人吉海軍航空隊として予科練生の教育施設としてエンジニアやパイロットの養成を目指していました。
唯一写真を撮影することができた壁面を紹介します。
通称「赤とんぼ」と呼ばれた九三式中間練習機(きゅうさんしきちゅうかんれんしゅうき)です。
1933年に一号機が完成したため九三式なのでしょうか?
(1931年完成の機は九一式)
実物の車輪に手をふれることができます。
展示のキャプションから、昭和20年11月に、米軍が計画していた本土進出計画は基地のわずか20km先だったことが分かります。
昭和20年になり、戦況が悪化すると基地での教育は停止され、3月、5月には空襲で大打撃を受け、その後、米軍上陸に備えて本土防衛を目的とした施設になりました。
なお、3月の空襲では地域の住民4人も死亡しています。
館内では他にも、基地跡に関連する発掘品や、戦争体験者の証言映像から、当時そこにいた訓練生や地域の人々の生活、基地の様子、戦争の悲惨さを感じることができます。
建物内だけでは、500円の入館料は高い!と言わざるを得ないほど、展示物があまりにも少なく、壁面やリーフレットの説明も来館者に何を伝えたいのか分かりづらいです。
しかし、この施設の真骨頂は館外です。周辺一体がフィールドミュージアムになっているところです。
そのことを知らない来館者が、すぐに帰って行ってしまっていました。
亭主も、次回のガイドツアー開始まで30分、さらにガイド30分の時間はないかなあと思い、館内の展示と少しばかりのミュージアムショップを見て帰ろうとしました。
すると館の方が申し訳なさそうに「少しだけなら私が案内しますよ」とおっしゃってくださり、甘えさせてもらいました。なんと贅沢な!
館の北側には戦中の1,500m滑走路の一部が生活道路として残っています。
戦後の農地開発で幅は4mほどになってしまいましたが、当時の幅は約50mあったそうです。
滑走路跡の東端、林の中を整備された階段をしばらく降ると小さな神社があります。
館の北側には戦中の1,500m滑走路の一部が生活道路として残っています。
戦後の農地開発で幅は4mほどになってしまいましたが、当時の幅は約50mあったそうです。
滑走路跡の東端、林の中を整備された階段をしばらく降ると小さな神社があります。
木上加茂神社
「きのえ」と呼びます。大きな二本の杉の木が二の鳥居となる小さな神社です。屋根は戦時中は茅葺きでしたが、現在は金属で葺き直されています。カバー工法ですね。
終戦時には、この神社で玉音放送も流されましたが、雑音がひどく聴き取れるものではなかったそうです。
その神社の傍らに
地下魚雷調整場の遺構があります。
基地向かい側にある林の中では、特攻用ボート「震洋」の製造も行われました。
ヘルメットをかぶり、ガイドさんの案内のもと、遺構の中に入ることができます。
壁の凹凸は洞窟を掘ったツルハシの跡です。
洞窟の中にコンクリート造りの魚雷調整場がありました。
戦時中にここで魚雷が製造されていたのですね。
周辺には、このように当時のままの防空壕、居住区跡、工場跡など多くの遺跡が当時の風景と同様に残されています。
そんなことはつゆ知らず軽い気持ちで立ち寄ってしまった自分に猛省しました。
と共に、遺跡の管理と保存に加えて、戦後GHQの焚書坑儒で失われた記録の掘り起こしが急務であり、多くの方々に知ってもらうための研究が進めば、多くの方々に来てもらえるポテンシャルはあるでしょう。
しかし、それを町が行う必要があるのか?
戦犯を除き、お国のために尽くした方々の顕彰は難しいものがありますが、遺構の保存管理は県や国がしっかりと施すべきではないだろうかと思った次第です。
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